一滴の「当たり前」を問う――6月、水の月を迎えて

一滴の「当たり前」を問う――6月、水の月を迎えて

今年の春は雨が少なく、各地でダムの貯水率低下が報じられるなど、深刻な水不足が続いていました。

下がっていくダムの貯水率に不安を覚えた方も多かったのではないでしょうか。

しかし、暦はいよいよ「水無月(みなづき)」へと入ります。

「水が無い月」と書くため不思議に思われるかもしれませんが、この「無(な)」は古語の連体助詞で、現代の「の」にあたると言われています。つまり、水無月とは「水の月」。田植えを終えた田んぼにたっぷりと水を引く、命の潤いに満ちた月という意味なのです。

例年、関東ではあと一週間ほどで梅雨入りを迎えます。ようやくこの渇きが癒やされ、本来の「水の月」らしい季節がやってきます。

我々日本人は当たり前のように蛇口をひねって当たり前のように口にする水ですが、実はそれは世界的に見れば「奇跡」のようなことであるというのをご存じでしょうか。

現在、水道水をそのまま飲める国は、日本を含めて世界でわずか15カ国程度と言われています。アジアでは日本だけしかありません。

意外なことに、世界の大国であるアメリカやカナダでさえ、この「15カ国」には含まれていません。広大な国土の隅々まで、飲み水としての清らかさを保って届けることは、それほどまでに困難であるということだと思います。

そう考えると仏教やキリスト教、イスラム教などの世界三大宗教が「水」を神聖視してきた理由もわかる気がします。

水不足を経験した今年だからこそ、世界の水文化に目を向けてみると、キリスト教やイスラム教が生まれた中東は砂漠地帯で、水こそが「神の慈悲」そのもの。礼拝の前に水で身を清める文化は、命を守るための知恵でもありました。

仏教が生まれたインドも、乾季と雨季がはっきり分かれる大地です。泥の中から清らかな花を咲かせる蓮のように、水は汚れを浄化し、悟りへと導く象徴となりました。仏様にお供えするお水「閼伽(あか)」が尊ばれるのも、こうした風土の中で育まれた文化です。

どの宗教においても、水は単なる物質ではなく、心や魂を清め、生かしてくれる聖なるものとして扱われてきました。

今年の春、私たちは水不足という経験を通じて、一滴の水のありがたさを痛感しました。仏教には「知足(ちそく)」という言葉があります。足るを知ること。当たり前にあるときには気づかない恵みも、それが失われそうになったとき、私たちは初めて「生かされていた」ことに気づかされます。

間もなくやってくる梅雨。どんよりとした曇り空や降り続く雨は、時には鬱陶しく感じられるかもしれません。しかし、春の渇きを経験した今年の私たちにとって、その雨音は、ダムを潤し、田畑を潤し、私たちの命を繋いでくれる「祝福の音」として響くはずです。

水不足を乗り越え、ようやく大地が潤いを取り戻すこの6月。蛇口から出る一杯の水に、そして空から降る一滴の雨に、かつて中東やインドの聖者たちが抱いたような「畏敬と感謝」を重ねてみるのもいいかもしれません。

たとえ空が曇っていても、そこには次なる命を育む力が蓄えられています。雨の日にはその一滴がどこへ辿り着くのかを想い、晴れの日には乾いた大地を潤す水のありがたさを想う。

そんな風に、身近な「当たり前」の中に尊さを見出すことができたらと思います。

足るを知る者は富むという格言もありますが、現代はどんどんと贅沢を好むようになってしまっているのかもしれないと感じるところもあります。

足りているのにもっと良いものを求める。誰かと比べて足りていないのかも知れないと不安になる。足りなくなると他人を責める。

今一度、改めて「足るを知る」という言葉の意味を考える必要があるのかも知れないと思う出来事でした。

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